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モナコ王妃グレースケリー
グレース公妃の面影をさがして
人々に愛され、親しまれたプリンセス
1982年9月13日、山の上のラ・テュルビー村からモナコへと戻る途中、グレースが運転する車がヘアピンカーブを曲がり損ねて転落。運び込まれた病院で,帰らぬ人となりました。
実際は次女ステファニー王女が運転していたとも言われましたが、訃報は瞬く間に全世界を駆け巡り、衝撃と深い悲しみを与えました。
享年52歳。あまりにも突然の、早すぎる死でした。今は、旧市街にあるモナコ大聖堂に静かに眠っています。
グレース公妃の面影をさがして
フォンヴィエイユ地区の、ニースからモナコへ旅行客を運ぶヘリポートのすぐそばに、愛らしい花園があります。花のなかでも、ことさらバラを愛した公妃を偲んで、レニエ公が造らせたバラ園です。
少女のころから花を愛し、フィラデルフィアの生家では、庭の一角に自分だけの花壇を作っていたというほど花や自然が好きだったグレース公妃。
「モナコは花のみが国境をなす国」と実感した公妃は、モナコでフラワーショーを開くことを提案。みずからもフラワーアレンジメントを楽しむようになりました。さらには、花を通じた芸術振興のために1968年にモナコ・ガーデン・クラブを設立しました。
生涯を通じて花や自然を愛したグレース公妃が、その人生の後半に出会ったのが押し花絵でした。
押し花絵とは、花びらや葉、茎などをプレスして乾燥させ、それを台紙の上で自由にアレンジして、1枚の絵として完成させるもの。グレース公妃は押し花絵に夢中になり、何時間もアトリエにこもり、作品作りに没頭する日が多かったといいます。
バラ園にはグレース公妃の名のバラが咲き、真ん中に公妃の像が立っています。その像を囲むように、「レニエ」「カロリーヌ」「アルベール」「ステファニー」の名がそれぞれ冠したバラが咲いています。生涯をかけて一番大切にし、一番愛した家族に囲まれてたたずむグレース公妃の像は、幸せそうに微笑んでいるように見えました。
ケリーバックの伝説
結婚の翌年、グレース・ケリーは大きな幸せに包まれていました。
カロリーヌ公女が誕生したのです。
それはグレースにとって人生最大の喜びだったでしょう。次いで1958年にアルベール公子(現モナコ公)、そして1965年にはステファニー公女を出産しました。
3人の子どもの母になったグレースは、なお世界中の人たちの注目の的であり、モナコの母親たちの憧れでした。カロリーヌ公女がお腹にいたころ、グレースがマスコミの前に姿を現したとき、手にもっていたエルメスのバッグで大きなお腹を隠していました。
以来、そのバッグは「ケリーバッグ(下記写真参照)」と名づけられたという伝説は、あまりにも有名です。
レニエ公とグレースは子育てにとても熱心で、特にグレースは躾にも厳しかったといいます。
ヨーロッパ公室の伝統と、アメリカ流の子育てとは、価値観が衝突することもあったようです。たとえば、従来、子どもたちには家庭教師をつけて、宮殿内で勉強をさせるのがモナコ公室の慣例でしたが、グレースは一般の子どもたち同様に学ばせたいと、私立の学校に通わせたといいます。
また、母乳で育てるキャンペーンを行なうなど、グレースは常にモナコの人々の手本であろうと勤めていました。

モナコの象徴として人々に慕われたグレース・ケリー
モナコが世界的に有名になったのは、グレース・ケリーの影響は大きなものがあります。
アメリカを始め、世界中の人々がヨーロッパの小国にすぎなかったモナコを知り、訪れるようになったからです。
モナコ公国のプリンセスとなったグレース・ケリーは、国内の公式行事を始め、数多くの公務をこなしました。(写真はレニエ公とグレースケリー王妃)

特に舞踏会やパーティ、外国訪問など、華やかな社交場で彼女の魅力は発揮され、レニエ公のパートナーの役目を完璧に果たしました。
そういったグレースの活動がすべてニュースとなり、モナコのイメージが世界中に知られるようになりました。グレース・ケリーは、モナコのエレガンスの象徴となったのです。
グレースは、赤十字の総裁を務めたり、病院や保育園を設立したりするなど、社会活動も積極的に行いました。
また、モナコの文化や芸術の発展のためにグレース公妃基金を設立。ダンス・アカデミー、モナコ・ガーデン・クラブ創設、グレース公妃劇場の再建などに尽力しました。
実はプリンセスになってからも、ヒチコック監督から映画出演のオファーがあったといいます。公妃の立場を考慮し、オファーを受けることはなかったが、大好きなバレエや映画への情熱を、心の奥に抱き続けていたであろうことは、想像に難しくありません。
ダンス・アカデミー創設やあ劇場再建は、みずからの夢を、モナコのすべての人々の夢として昇華させることで、「女優グレース・ケリー」と決別するための、決着のつけ方だったのではないでしょうか。